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わたしのしてん。            (c)音泉ニットキャップ。
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南田洋子さん、好きだった。

南田洋子さん、好きだったな。

笑った時の口元がかわいい人。
いつも、りん!としてる人。
それから、話している言葉に
救われてたり、学べている…人だな。
優しくて、大きな人。
なりたいけれどなれない強い人だ。

さっき、ちょっとテレビを付けたら
『金スマ』で追悼をしていた。
もっと早く見れば良かったな。
亡くなる2週間前の映像を見ていた。

何度かTV朝日の認知症の洋子さんを
見ていて、ショックだったけれど
実際に老老介護をしているお宅の現実を
実際はもっと戦場だと想うんだけど(少し経験済)
見せてくれたこと、人として魅力ある洋子さんが
変わってしまったこと。
でも長門さんが出かけるのを寂しそうにしてるのよね。

結婚に対しての甘い夢よりも現実の
厳しさを常に公で話してくれた人。
女性の先輩として、有り難い言葉ばかりでした。
とはいえ、まだ独身でございますが。

「赤いよ、赤いよ」って
その介護のドキュメントで洋子さんがいう。
長門さんは、それが何だか判らなくて
一生懸命、何をいいたくて発するのか探す。
赤ちゃんが泣いた時のママのようでした。

愛とは、最後まで共に生きること。だな。
いうのは簡単で奇麗。だな。
だな。だな。だな。

『金スマ』のあの2週間前の映像の洋子さんは
いつもの落ち着いた、どっしりとした洋子さんだった。
あの時期を見てたので驚いてる。

でも2週間前だと知ってだったのですぐ想った。

家族を失った経験をした人でいるかと想うんだけど
最後のひと絞りで、突然、元気な頃に戻ることがある。
私も経験している。
親戚や友達は、ほっとして「明日またくるよ」なんて
いってた数日後、突然、急変してゆかれた…。

それまで喋ることが、ままならないで
伝わらないから怒り、当りちらしてたけれど
元気な頃に戻り、傷みも忘れてるかのよう。
そして、聞く側になり自分の様子なんか聴いてくれた。
そして、いいたいことをいっている。
最後の交流。許された交流なんだろうな。
天に召される前の準備に入ってるんだろう。
いつも食べたくても食べきれなかった物を
スプーンをしっかり持って食べてたというし。
驚いてるその時間が一番大事な時間なんだよ。
一緒にいないといけないよ。

大好きな人がいなくなるのは、きついよ。
人の死は慣れるものではない。

ご冥福をお祈りします。

長門さんが心配。
周りの方、まめに声かけてあげてほしいです。
疲れと寂しさが半端なく出るからね。


ああ、1つ書くと凄く疲れる。

夏前から視力がガクンと落ちた。
友達と待ち合わせててね
目の前にきてるのに見てたのに
全然判らなかった。

それから何だか気力が湧かなくてさ。
どんどん悪くなってきてる…。

少し休んむわ。
まだ書きたいんだけどね。いろいろ。
サッカーも見た所で疲れちゃって
書きたかったんだけどな。


(c)isono


Excite エキサイト : 芸能ニュース
2009年10月22日 06時01分 ( 2009年10月22日 06時30分更新 )
南田洋子さん逝く…入院5日、手術実らず
1975年5月、テレビ局の楽屋でくつろぐ長門裕之と南田洋子さん夫妻
 「太陽の季節」など多くの映画やドラマに出演し、17日に意識障害を起こして入院していた女優の南田洋子(みなみだ・ようこ、本名加藤洋子=かとう・ようこ)さんが21日午前10時56分、くも膜下出血のため東京都内の病院で死去した。76歳。東京都出身。夫で俳優の長門裕之(75)は舞台に出演中のため最期をみとることができず、「さよならも言わないまま永眠しました…」と悲しみに暮れた。
 入院から5日目、南田さんは集中治療室で親族数人に見守られながら息を引き取った。事務所関係者は「安らかで、さすが女優さんというようなきれいな顔でした」と語った。
 17日に都内の自宅から救急搬送された後、くも膜下出血と診断され緊急手術を受けた。20日には長門が会見し、南田さんの状況を「意識は戻らず、自分で呼吸ができない状態」と明かしていた。
 遺体は21日正午すぎ、東京都世田谷区内の自宅に移され、寝室に安置された。長門は午後8時に帰宅。車を降りると、迎えに出ていた事務所関係者と抱き合った後、無念の表情を浮かべながら家の中に入った。
 南田さんは1949年、高校を卒業して茨城県土浦市から上京。故水谷八重子さんの弟子となり、51年に大映ニューフェースとして映画界入りした。同期に若尾文子(75)がいる。同年「美女と盗賊」でデビューし、53年の「十代の性典」で注目を集めた。
 55年に大映から日活に移籍。芥川賞を受賞した石原慎太郎氏(現東京都知事)の「太陽の季節」を腸の病気で入院していた際に読んで感激、自ら日活に映画化を進言し、長門と主演。大ヒットし看板スターに躍り出た。
 この共演をきっかけに5年の交際期間を経て61年3月9日に結婚。芸能界きっての“おしどり夫婦”として知られた。結婚後も女優業を続け、63年「サムライの子」の好演でブルーリボン助演女優賞を獲得。翌64年には長門とともに「人間プロダクション」を設立し、ドラマ制作にも参画。65年からはフジの音楽番組「ミュージックフェア」の司会を夫と務めた。
 4年ほど前から認知症の症状が見られ、長門が在宅で介護。08年秋にはテレビ番組で公表し、闘病の様子と長門の献身的な介護ぶりが話題となっていた。今年2月に脳こうそくと診断され、4月1日に意識が混濁状態となり入院したが、同18日には退院。その後は症状が良くなり、今月9日のTBS「中居正広のキンスマ!〜波瀾万丈スペシャル」で元気な様子が放送された。長門が3日から始まった舞台に出掛ける際にも「行ってらっしゃい」と見送っていたという。ただ、救急搬送された17日だけは「寒い。ごめんね」と言って見送りはなかったという。

 ◆南田 洋子(みなみだ・ようこ)1933年(昭8)3月1日、東京生まれ。父は米穀商、母は日本舞踊の師匠。51年「美女と盗賊」で映画デビュー。旧姓「北田」の北を「暖かい方がいい」のアドバイスを受け南に変えて芸名にした。「太陽の季節」で人気を得て以来、映画「幕末太陽傳」「豚と軍艦」、ドラマ「若者たち」「続・氷点」「わかば」などで活躍。認知症が悪化した06年まで女優活動を続けた。

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by iso_noon_sen | 2009-10-23 23:10 | 芸泉

やっぱり麗子さんの弟さんの言動が‥

他人事である。
よく近所の人が話すような感じですね。

3日に亡くなられていたというのは
締め切っていたらしいから暑くなって
湿度が凄く高かったので‥だろう。

でも2週間前なら生きてたわけでしょ。
都内にいた弟は会社員で仕事もしてたけれど
そう遠くはない場所にいて鍵も持っていた。
なんで行かなかったんだろう。
きっと電話が何度か鳴ったのを聞いて
変だと気づいて来てくれると信じてたかもしれない。

ご近所も気にされていたようでしたね。
締め切って要塞状態で状態が不明。
もしも判れば、何かしら助けてくれてたかも?

でも、「うつ病」になってたこと報じられてなかったよね。

最近ではなく、以前からだとあった。
乳がんも手術していて、舞台の2週間前に手術と
書かれていたように思う。それって‥。
小さかったのかな、でも体にメス入れると辛かったはず。

「うつでもあったので、いろんな薬を飲んでいたから」と
「倒れてた3mほど先にあった携帯まで動けなかったんだろう」と
「床で頭が痛かったから枕の代わりに洋服をあてがっていたのでは」と
病死した推測をしていた弟さん発言は他人事でした。
もう動く気力がなく限界だったんだと思う。
それだけ強い薬を飲む日々なら体調が悪い日のが多かったかも。
合わなければ、また新しい薬だったろうし。
買出しに出た水は、その薬の為だったのかな。

うつ病の人を一人にする。
難病でもあり骨折をして、リハビリも
ままならない人を介助する人が
いなかったんじゃないかって様子が流れ
私は、弟さんがどれだけをしたのか疑ってしまう。

人との付合いに疲れるし難病の方でも
生活疲れがあったはずなので
自分から電話できなかったかなと察します。

一緒に過ごす時間は、弟さんの家だったようだし
家族で集まった時の話の中でも違和感。
「誰かお友達に車で送ってもらったようです」と。
普通、挨拶をしないかな。ありがとうっていわないかな。

麗子さんは、車椅子の母親の介護を誰がするんだという
家族会議で、「私がする!」といった時点で
大変な決断だけれど、生き甲斐になっていたのよね。
大好きなお母さんとゆっくりな時間は大変だけど
きっと楽しかったと思う。

その介護の決断と同時に、もしも自分が動けなくなって
助けを弟に求めても、「来ない」と思ったのでしょうね。

お洋服など身に着けてた物は皆にあげちゃったようで
老い支度、身辺整理をしてたのかな。

あの暮れの忠明さんとの対話での泣きじゃくる様に
それまで様子が気にならなかったのかな。
弟さんはどうしたんだろうか。
弟さん、独身なのかな?

弟さんしか肉親で動ける人がないってことで
こんなに詰め寄る書き方だけれども
その動ける彼が、行政に相談をして何か
手を打って、サポートが入っていたら違ったんです。

お母さんに、会いに行ってるのかな。
家族が顔を見にくる予定があるだけで
寝たきり、ボケも遠のくものなので
これからは弟さんが、しっかりお母さんの
支えになってくれないと可愛そうよ。
お母さんが、これだけ長く生きていてくれているのも
意味があると思うし、ありがたいことです。
存在だけで力強く思えるもの。
施設に入れたままじゃ可愛そう。

60にもなっちゃうと、自分が高齢だからって?
年齢が高齢同士になって、互いに
理解してあげられること増えないかな?

介護のプロに任せているのだから顔出して
一生懸命、麗子さんの話や幼い頃の自分が
嬉しかったり、感謝した思い出を話してあげてほしい。
返事なんかしてくれなくったって、聞こえてるさ。
そこにいる限り、ずっと生きている命に話してね。

誰もが一人ぼっちで生まれて、死んでゆくのだけど
家族がいるのに、こんな最後ってかわいそ過ぎる。

麗子さんが食事は出来てたのかと考えては、切ないです。
出来なくなってしまうことが増えてたはず。
女性だから、お風呂やトイレのこともね。

ちょっとお茶を飲みたいって思ってても
力が入らない状態に諦めてしまって
何も食べなくなってなかったかと考えてしまう。

母が手に力が入らなくなってきたと話してくれた時
とっても不安そうな顔でずっと悩んでいた。
物を何か1つ落とす度に表情が曇っていた。

麗子さんは歩くことも困難だったというし
それを一人で暮らしてたなんて考えるだけで苦しくなる。

何を思っただろう。
人生を振り返る時間がもしあったとしたら
こんなはずじゃなかったと思ったかな。
それとも「人生こんなもの」と思った?

先日、他界されたかおりちゃんは、元彼だった
ヒカゲさんが都内にいる間は毎日会いに行ってくれて
最後も手を握り、名前を呼んでお別れをしたそうです。
いいお友達として付合いが続いてたことに感動してしまった。

家族や友達に囲まれて、お別れをいえた最後のシーン。
私の最後にはあるだろうか。

囲むようにお別れに集まってもらったら
「別れたくない」と、泣きまくってしがみつきたくなるか
そう思いつつ黙って泣きもせず何も言わないかもしれない。
もしかすると何処かの通りで身分証明書もなく
たまたま出かけた帰りに倒れていなくなるかもしれない。
いつ人生の終わりが来てもおかしくない人生。

麗子さんのあの不安の叫び声は、これから
自分の身にも起こり得るテーマだと思う。



(c)isono


Excite エキサイト : 芸能ニュース
2009年8月8日 09時51分
大原麗子さん荼毘に、死後3日経っていた
 6日に都内の自宅で遺体で見つかった女優大原麗子さん(享年62)が3日に亡くなっていたことが7日、司法解剖で分かった。この日午前、大原さんの遺体は母俊子さん(92)弟政光さん(60)の遺族2人が見守る中、荼毘(だび)に付され、都内の実家に帰った。大原さんの遺志で通夜・葬儀は密葬で行われ、後日、お別れの会が開かれる予定。
 大原さんの遺骨は母俊子さん、弟政光さんが住む都内の実家に帰ってきた。政光さんによると、司法解剖の結果、死亡推定日時は8月3日と分かったが、死因は不明という。「特定されるまで50日ほどかかるようです」(政光さん)。この日午前に遺体は都内の葬斎場で荼毘に付されたが、立ち会ったのは母と政光さんの2人だけだった。「家族だけで送りたかった。姉も喜んでくれていると思います」。
 政光さんが最後に会ったのは7月5日だった。「その時は元気でしたよ。病気(ギラン・バレー症候群)も回復に向かっていたので、こんなことになるとは思いもしませんでした」。8月に入って連絡が取れなくなったことから、6日夜に成城署員とともに世田谷区にある大原さんの自宅に入り、遺体を発見した。「床にあおむけで倒れていて、頭が痛かったのか枕代わりに衣服をあてがっていました。1・5メートル離れたところに携帯電話があったけれど、そこまで届かなかったのでしょう。携帯に手が届いていれば助かったかもしれないのに」と悔しがった。
 大原さんの遺志もあって、8日に大原さんの自宅で密葬が行われる。「以前万一の話になった時、『派手にはしないでほしい』と話していました。ただ、お墓にはファンの方にもお参りに来てほしいと、懇意にしているお寺に用意していました」。後日、お別れの会を予定している。「姉は偉大すぎて、昔は何かと比べられるのが嫌だった。厳しいところもあったけれど、優しい姉でした」と振り返った。

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by iso_noon_sen | 2009-08-08 14:50 | 芸泉

大原麗子さんの通院にレポーター、そして母親90歳の‥。

今、ちょっと食事するのに、TVをつけたら
前田忠明さんが話していたのを聞いて
また、泣いてしまった。

昨年、麗子さんが骨折した時に自宅前の
インターフォンで話をした時のことや
少しの間、通院介助をしていたお話など‥。

前忠さんと、同世代くらいなのかな。

大女優が、一人で家にいて90のお母さんが
麗子さんの骨折など心配から心労で倒れて
起きれない状態の中、自分が難病でなければと
心が破裂しそうな時の取材だったんですね、多分。

あの気丈な麗子さんが、インターフォン越しに泣いていて
お母さんが心労で倒れたことと、自分も体を起こしてると
辛く、また横になっても、大きく深呼吸していないと辛い状態らしかった。

泣きながら、まるで小さな女の子のように
「私のことを全部知っているのはお母さん、
 お母さんが命なんです。命の恩人なんです」と
訴え続けていたその身上と想いが、自分とかぶってきて
こみ上げてきてしまった。

90歳まで、娘の華やかな人生を共に喜び
そして、彼女の晩年を支えてきたお母さん。

そのお母さんの介護問題で、誰が面倒を見る?と
家族でもめたんだそうなので、弟さんがまめに
連絡をしてなかったのは、それもあったのかもしれないです。
介護は、麗子さんが「じゃあ私がやるから!」と
お母さんの介護を、今年の2月位までしてたそうな。
そして、施設に入った方が、十分なことをしてあげられるということで
その後、一人きりになったそう‥。

弟さんや兄弟が何人いるか分からないけれど
今度は、麗子さんの財産で、もめるんだろうな。
美味しいとこ取りで、思いやりはどこ?

親族よりも、近くの他人って人が多くなってるのも判る。
なんとも醜さ丸出しとか、ホッタラカシにされて
困っていても「元気?」という電話1つもない状態。

前忠さんは、麗子さんと病院で待ち合わせて
麗子さんが病院まで、タクシーで到着すると
乗り場から、診察する場所まで歩けないから
おんぶして連れていったそうです。
それが、何度かあったそうです。

薬をもらいに行って、また病院内からタクシーまで
おんぶをして、そこから一緒に食事に行く。
麗子さんは、それが楽しみだったみたい。
食べずに喋って、女優復帰を何度も誓ったそう。
食べずに痩せてゆくばかり。

それが、いつからその送り迎えがなくなったのかな?

迷惑かけているんだ、悪い‥。って
思うようになって、自分で行くようになったのかな。
3月までは連絡取ってたみたいなんだけど。
それが続いていたら、早いうちに何か対応が出来て
例えば、専門の施設でお母さんと一緒に過ごせるようにとか。

引き離された状態で、寂しかったと思う。
その気持ちはとても理解できる‥。
施設には、出かけられてたのかな。
人目があるから、行けなかったかな。

るりこさんとは、電話でよく話してたようで
最近は、連絡してなかったのかしら。

郵便物は、局留めで私書箱にしていて
体調がいい時に取りに行ってたそうな。

1ヶ月くらい前は、近くのコンビニに水を
2L3本ほど手に持って歩いてたそう。

この様子を見ると、家に人が来るのを
避けていたようなので、起きてられない麗子さんが
どんな生活をしていたか、他人であっても
心配になってしまう状態だったと感じてしまう。

自分がおっくうがった大切な母親の介護を
難病で不自由な姉が引き受けてくれたのだから、とつい
弟さんは、お姉さんの手伝いなど出来なかったのかな。
弟さんの奥さんや子供さんは?とつい。
お母さんの施設には顔を出してくれてるのかしら?とつい。
すべておっくうしてた所を楽になったけれど
これから大変ですよ、共に助け合っていたら
お姉さんは、生きていたかもしれないのに、とつい。
今更いってみても仕方がないことですが。
おっくうがっても命が消えて、目の前からいなくなると
家族の存在の大きさに飲み込まれることでしょう。

夫婦もそうだけど、絆の深い場合
片方が先にゆかれた時、心労で弱って
立て続けに失ってしまうことがある。
家族のアフターケアは大事です。一人にさせないこと。

前忠さんが、あの時に取材に行ってくれてよかった。
食事をしたり、対話をしたり、取り戻せそうだったんだろうな。
病院に行けば、後の楽しみがある‥なんて少女のよう。

麗子さんだけでなく、人間にはこういう時間は必要。
生きる気力、人からもらうエネルギー、楽しいと思う時間。
これらも、人間としての栄養なんです。
介護疲れの人たちのケアは、考えられてるのかな。
ゆっこちゃんだけではない事件がまだまだ多い。

番組のそこコーナーの間、麗子さんが自分で
「気に入っているの」と
前忠さんに手渡した写真が映されていた。
乗馬をしてる時の写真でしょうか、30代の頃かな。
姿勢よくて、りんとしてる麗子さん。
自分の過去にもはげまされていたんだろう。

生まれ変わっても女優で。
私は生まれ変わったら動物かもしれないけど。


(c)isono


Excite エキサイト : 芸能ニュース
2009年8月7日 06時01分 ( 2009年8月7日 06時42分更新 )
大原麗子さん孤独死…死後2週間以上
1988年NHK大河ドラマ「春日局」に出演した大原さん
 映画「おはん」やNHK大河ドラマ「春日局」に主演した女優の大原麗子(おおはら・れいこ)さんが死去したことが6日、明らかになった。62歳。東京都出身。数日前から連絡が取れなくなった弟が、心配になり警察に連絡。警察官が自宅を訪ねたところ、2階寝室で仰向けに倒れている大原さんを発見。事件性はなく、死後2週間以上が経過していたという。1999年に手足に力が入らなくなる「ギラン・バレー症候群」を発症。以後はほとんど芸能活動を行っておらず、孤独な最期だった。
 映画「おはん」(84年)の芸者、NHK大河ドラマの「春日局」(89年)の乳母――数々の名作に出演し、タレント好感度ランクで14回も1位に輝いた女優の最期は孤独なものだった。

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by iso_noon_sen | 2009-08-07 10:13 | 芸泉

「麗子、帰る!」‥‥大原麗子,逝く

芸能界の波が大荒れの中
またもや時代の終わりを見たような気がした。

私の周囲でも、そういう事態が続いていて
最後は、私も消えてしまうのではないかと思う
変なショックが続いています。
それは、自分が10代20代の頃とは違う感覚が
判るアンテナを得られたのかも、と感じる。

美人薄命には、60代と言われそうですが
スクリーンを離れて長かったので何だか
そう思えてしまう麗子さんです。

あのかわいい声を聞けないのかぁー。
よくネタにされてた「麗子、帰る!」って
麗子さんも楽しんで、バラエティでいってたっけ。

ギラン・バレー症候群かぁ。29歳から発症だって。
その病気もつい最近の報道で知ったまでで
全く知らなかった病気だ。当時からその名前だったのかな。
ただの難病がこの長い期間に判明したのだろうか。

色っぽくて、男性をめろめろにする麗子さんは
ずっとそのままでおられたこと。
2度の結婚で子供を授からなかったこと。
お手伝いさんを入れずに自分で頑張ってたこと。
いろいろ、いろいろ。
彼女も、のりぴーのような人だったのかな(前BLOG推測見てね)

弟さんは、難病で一人暮らしの姉なのに
まめに連絡いれてなかったんだね。

もしも、子供がいたならば違ったかも。
お手伝いさんを自宅に入れることを許してたら違ったかも。
生活に困る生活ではなかったと思うので
他人に家に入られることは許さなかったのかな。

私がこのまま独身だったら、生活に困った状態で
頼みたくても頼めなくて、部屋でとろけているかもしれない。
飯島愛さんのことといい、孤独死は背中合わせ。
今その動けない状態だとしたら、友達からの連絡は
メールが多く、電話は少ないので発見はかなり遅れるでしょう。
病気をよくせねばと思うけれど、何か長生きする理由が今はない。
現実に今、いろいろ思うこともあります。
あの人と結婚しちゃおうか‥これもきっと運命と勢いですね。
必須、支え‥です。
それは、支えてほしい気持ちと、支えたい気持ちあってこその支え。


(c)isono


Excite エキサイト : 芸能ニュース
2009年8月6日 22時19分 ( 2009年8月7日 00時21分更新 )
大原麗子さんが自宅で死去 死後2週間以上
 大原麗子さんが死亡していた自宅=6日午後10時28分、東京都世田谷区
 6日午後7時ごろ、東京都世田谷区の女優大原麗子さん(62)方で、大原さんが死亡しているのを警視庁成城署員が発見した。死後2週間以上経過しているという。警視庁は事件の可能性は低いとみて、詳しい死因を調べている。大原さんは東京都出身。1964年、NHKのオーディションに合格してデビュー。65年「孤独の賭け」で映画の世界へ。

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by iso_noon_sen | 2009-08-07 05:32 | 芸泉

ボンカレーは、ヨウコでなきゃっ

松山さんの、あのパッケージがいいな…。
オロナミンCも、コンちゃんに戻して…。

長い、長い、ヒットを続けている商品の
イメージは、簡単には消えないのである。

幼き日の、楽しきイメージ。
美味しかった、食べたかった、が
いい思い出となかって離れない。

共働きで、幼稚園の頃からカギッコだった。
カギを開けて、風が吹き抜けるような
あの寂しい時間は、今はおとなしく居られるけど
幼い頃の記憶は消えず、癒えてない。

忙しい時は、母が帰ってきて幼い子たちの
空腹を黙らせるには、レトルトはありがたかった。
子供にも、家とは違う味を簡単にすぐ
食べられることに刺激があった。

お休みの日は、おやつを手作りしてくれたり
食事も手間をかけてくれていた…。

こんなにレトルトや、インスタントが溢れてなかったから
印象的で、「残してほしい」なんて思うんだろうな。

松山さんは、ボンカレーの母。
慶子さんも素敵なんだけど
彼女は、まだ「愛の水中花」なのである。



(c)isono onsen

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見~つけた! ボンカレー“看板和服美女”はいま [ 02月16日 17時05分 ] 夕刊フジ
 大塚食品(大阪)が「ボンカレー」発売40周年を記念し、若き日の美人女優、松山容子さん(70)がほほ笑む初代パッケージを、100万食限定で発売する。ホーロー看板でも見慣れた和服姿は、ファンの間でオロナイン軟膏の浪花千栄子、オロナミンCの大村崑とともに「大塚三羽ガラス」といわれた。だが、松山さんは結婚を機に突然表舞台から姿を消した。あれから37年-。夕刊フジはついに、あの笑顔にたどり着いた。

【時代劇で人気】
 「かつて女優をしていた人間としては、ホント幸せなことですよね」
 松山さんはボンカレーでの久々の復活を素直に喜んだ。1937年、愛媛県松山市生まれ。銀行を経営する名家に生まれ、高校卒業後、NHK松山局に入局。雑誌『アサヒグラフ』の表紙モデルをきっかけに、松竹の映画女優へ転身する。
 1960年、テレビ時代劇『琴姫七変化』に主演し、その美貌(びぼう)と女性離れした太刀さばきが人気を博し、番組スポンサーだった縁で大塚食品の「ボンカレー」イメージキャラクターとなった。
 人気絶頂の71年、劇画家の故棚下照生氏と結婚し、突如芸能界を引退。以後、一切の活動を控えてきたが、「ボンカレー」のギャラはいまだに支払われ続けている。現在は東京郊外に高齢の母親と2人で静かに暮らす。「日本のお母さん」といった穏やかな優しい口調は往時のままだ。
 「40年前のまま支持してくださることは、本当にありがたいですね。やっぱり、私とボンカレーは一心同体ですから。いまでも、(現キャラクターの)松坂慶子さんのパッケージを見かけると、ついうれしくなって余計な物まで買っちゃうのよ。なければないで心配になっちゃうし…」

【最初は気乗り薄】
 実は、出演依頼を受けた当時は、あまり乗り気ではなかった。
 「だって私、時代劇のお姫さまだったでしょ。それが、庶民的なカレーのキャラクターって…。しかも、お湯で温めるだけなんて、何だか気味悪くって。いまから思えば、ホント小生意気な娘でしたね。ホーロー看板にしても、当時の社員さんが、看板設置に難色を示す全国のお宅に理解をいただくのに、大変な苦労をしていたことを後から知りました。この仕事の大きさが、全然分かっていませんでした」
 もちろん承諾後は、徹底的に「日本のお母さん」にこだわった。おなじみの髪形は深夜に京都で時代劇撮影を終えて大阪のスタジオに直行し、鬢付け油ベッタリのまま強引にセットした。

【復帰はしません】
 3パターンある和服も自前で用意した。あれから40年、思いがけず全国の食卓へ舞い戻ったが、女優業の復帰やメディア出演は「絶対にない」と言い切る。
 「だって、皆さんのイメージが壊れちゃうでしょ。皆さん、日本のお母さんといえば『松山容子』とおっしゃっていただきますし…。私は仕事と家庭、両方に中途半端なことをしたくなかったので、結婚後は仕事をキッパリ辞めました。これからも平々凡々、時の流れるままに人生を終えたいと思っています」
 ボンカレーは、ピーク時に年間1億食を売る国民食となり、累計25億食も販売。ファミリーマートも2000年夏、“松山パッケージ”の『ボンカレーパン』を発売し、6週間で500万食を売る大ヒットとなった。
 「これまでもこれからも、私が食べるカレーは『ボンカレー』だけ。限定パッケージは、近所のスーパーで“ハコ買い”するつもりよ(笑)」

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by iso_noon_sen | 2008-02-16 18:16 | 食泉